江戸時代後期に差しかかろうとする頃、佐賀藩第八代藩主に襲封したのは鍋島治茂でした。治茂は疲弊した佐賀藩の財政を立て直すべく、藩政の抜本的な改革を意図します。その一環として、藩校弘道館を創設し人材育成に注力します。この治茂の改革が原型となって、幕末の佐賀藩の飛躍があるといっても過言ではありません。治茂の改革を支えたのが、佐賀藩の学者御三家ともいうべき古賀精里、長尾東郭、そして石井鶴山でした。石井家が生んだ佐賀藩を代表する学者の一人である石井鶴山の生涯をご紹介します。

 


石井鶴山は、佐賀藩多久邑の家臣石井十郎大輔忠貫の次男として、延享元年(1744)に生まれています。幼名は早次郎、亜吉といい、通称は有助といいました。諱は忠鎮、式猷、範衆、有といい、号は鶴山、仲車と称しました。

鶴山の家は、石井五男家の祖尾張守兼清(忠房)の末裔です。戦国時代、兼清は龍造寺家兼・隆信の信頼を得て活躍し、隆信が家督を相続するときは、この兼清が奔走しています。隆信が還俗・元服の儀式を執り行なったのは、まさにこの兼清の屋敷においてでした。その後兼清は、隆信の命により、多久家の初代龍造寺長信(隆信の実弟)の付家老になって以来、子孫のほとんどがそのまま多久家の家臣になりました。兼清の嫡男大隅守周信の次男三右衛門順友、さらにその四男弾右衛門忠政の玄孫が鶴山の父忠貫です。父忠貫も多久家の家臣から佐賀藩に召し出されて儒官をつとめています。

 


鶴山の生まれた多久領は、昔から学問の盛んな土地柄でした。佐賀本藩第二代藩主鍋島光茂の三男で多久家を相続した茂文が、多久領で文治政治を展開し、聖廟を建設し、学問所東原庠舎を開設して儒学を重んじた家臣の教育に注力しました。また、鶴山の父忠貫も学問をもって多久家に仕え、さらには佐賀本藩に召し出された身分ですから、家庭的にも学問を重んじる家風がありました。

鶴山も幼少の頃、東原庠舎に入学し学問に励みます。ここで鶴山は才能を開花させます。とくに漢詩の才能に秀でていました。鶴山は17歳にして、東原庠舎の都講(塾生の長)となります。その後、鶴山の才能を高く評価した佐嘉郡多布施村長淵寺の僧侶大潮(荻生徂徠の弟子)は、鶴山に京都で学問に励むことを勧め、大潮の手引きで鶴山は京都に赴いて、徂徠学派の高葛波に師事しました。 

多久の文教の象徴・多久聖廟

 

石井鶴山ゆかりの多久邑校・東原庠舎

 多久の文教の象徴・多久聖廟

 

石井鶴山ゆかりの多久邑校・東原庠舎

 


鶴山はその後、京都から江戸に遊学し、帰国後の安永4年(1775)、かねてから藩政改革を企図していた佐賀藩第八代藩主鍋島治茂に登用されます。鶴山31歳のときです。治茂は、第五代藩主鍋島宗茂の十男として生まれ、一時期、分家の鹿島鍋島氏(鹿島支藩主)を相続していました。兄で第七代藩主鍋島重茂の死去により、離籍復帰して第八代藩主の座を継いでいました。

当時の佐賀藩は、慢性的な財政難の状況にあり、藩政はもはや危機的状況にありました。治茂は、抜本的な藩政改革を断行し、財政の再建と、有為なる人材を育てるための教育に注力します。鶴山はこの治茂の知遇を得て、伴講(相談役)に任命され、その藩政改革の推進を大いに補佐したのでした。治茂はよほど鶴山に信頼を置いていたようで、治茂が江戸に参勤の折には鶴山も常に随行しています。

 


鍋島治茂は藩政改革を推進する上で、他藩の改革事例を収集するため、鶴山を肥後熊本藩に派遣して、藩主細川重賢の藩政改革を見聞させた他、鶴山自身も治茂の許可を得て、諸国を旅して、諸国の実状の把握と、当時を代表する学者たちとの交流を深めました。中でも同僚である古賀精里や、幕臣の太田南畝(蜀山人)、広島藩の頼春水らとは特に親しい間柄にありました。安永年間には、近江・美濃・尾張・河・陸奥・出羽・江戸・上総・下総・上野・下野・信濃・大坂・山陽諸国を、天明年間には、肥後・薩摩・江戸・北陸及び山陰諸国・筑前・長門・近江・京都・伊勢・尾張・大坂・山陽諸国を遊歴しています。

石井鶴山を重用した鍋島治茂の墓(高伝寺)

石井鶴山を重用した鍋島治茂の墓(高伝寺)

 


鍋島治茂は、改革の柱として人材育成の強化を掲げ、藩校弘道館を開設します。弘道館は幕末には後に近代日本の先駆者となる有為なる人材を多数輩出することになります。いわば佐賀藩の飛躍の原点はこの弘道館にあるといっても過言ではありません。弘道館の開設にあたって、治茂は古賀精里を教授に、そして鶴山と長尾東郭を助教に任命しました。まさに治茂と精里・鶴山・東郭が中心となって弘道館の原型を作ったといえます。鶴山は伴読国学教諭として藩士の指導にあたりました。

 


寛政元年(1789)、鶴山は鍋島治茂に随行し江戸に東上しましたが、帰国途中に発病し、佐賀藩大坂藩邸において療養中のところ、病没しました。遺骸は大坂曽根崎の久昌寺に葬られました。享年47歳でした。なお、佐賀市多布施の天祐寺にも墓碑(髪塚)があります。

治茂の孫直正(閑叟公)の藩政改革は全国的に有名ですが、その基礎を築いたのは、佐賀藩中興の祖と評される名君治茂であり、それを補佐したのが古賀精里、石井鶴山、長尾東郭でした。明治維新の佐賀藩の飛躍にも多大な功績を残したといえるでしょう。

石井鶴山の墓(天祐寺)

 

天祐寺の石井鶴山家墓地

石井鶴山の墓(天祐寺)

 

天祐寺の石井鶴山家墓地

 


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