石井亮一・筆子夫妻略年譜学園及び夫妻の主な支援者学園の福祉文化財参考文献

 


現在、我が国には4,000を超える知的障害者の福祉施設が運営されていますが、その嚆矢となったのが、我が国初の知的障害者福祉施設である滝乃川学園です。滝乃川学園が創設されたのは、開国後まもない明治20年代のことで、当時は富国強兵、国民皆兵といったスローガンのもと、我が国が軍国主義の道を邁進していた頃です。そのような時代の中、知的障害者は「白痴」と呼ばれて、人権・人格も認められておらず差別や侮蔑の対象になっています。しかし、そんな知的障害者に暖かい眼差しを向けた一人の若者がいました。彼こそ我が国最初の知的障害者福祉施設を創設した石井亮一。亮一は、もともと科学者を目指していました。しかし、キリスト教への信仰を契機に女子教育者としての道を歩み、さらには知的障害者福祉に生涯を捧げることになります。

一方、亮一の夫人筆子は、華族の令嬢として華麗な少女期を過ごしていました。日本初の海外女子留学生となり、帰国後は“鹿明館の華”と誉めそやされた才色兼備、何不自由のない生活でした。津田梅子らとともに我が国の近代的女子教育の先駆者とも呼ばれました。しかし、彼女の生んだ3人の娘たちは、すべて虚弱児でした。夫や娘たちとの死別といった苦難に直面し、彼女は華麗な生活に別れを告げ、福祉の道に生きることを決意します。そのような中で、亮一と出会い、再婚。亮一とともに知的障害者福祉の道に邁進することになります。

石井亮一翁

 

筆子夫人

石井亮一翁

(滝乃川学園石井記念文庫所蔵)

 

筆子夫人

(滝乃川学園石井記念文庫所蔵)

 


石井亮一は慶応3年(1867)、現在の佐賀県佐賀市水ヶ江において誕生しました。父は佐賀藩士石井雄左衛門忠泰、母は諸岡家の娘馨子。亮一はその六男でした。父は、大隈重信とは旧知の間柄で、大隈は亮一の父忠泰について、「お父上は、武士の中の武士というべきお方であった。とくに槍の名人であった。お体を壊されなければ、一緒に維新の志士として活動してであろう」と評しています。実際に忠泰は、明治政府司法官への登用の話しがありましたが、健康を理由にこれを固辞したとされています。[石井家系図]

亮一は、佐賀市の勧興小学校を経て県立佐賀中学校に進み、科学者を志望し勉学に励みます。その後、鍋島侯爵家の奨学生に選ばれ、東京大学工学部を受験しますが、体格検査で不合格になってしまいます。しかし、科学者の夢諦めがたく、米国のコロンビア大学留学を目指し、英語を習得するため、上京し、立教大学に入学しました。

立教大学入学後、亮一は大学の創始者であり学長のウィリアムズ主教に大きな影響を受け、受洗し、敬虔なキリスト教徒となります。そして、立教大学卒業を控え、米国留学のための健康診断を受けますが、その結果、やはり体力的に米国留学は不可能と診断されてしまいます。亮一は、ウィリアムズ主教の推挙により、立教女学校の教頭に就任し、教育者の道を歩むことになります。

亮一翁直筆の座右の銘

 

<意味>

愛は寛容にして慈悲あり

愛は誇らず

己の利を求めず

憤らず、人の悪を念はず

凡そ事望み

凡そ事忍び

凡そ事耐ふるなり

(コリント全書第13章)

亮一翁直筆の座右の銘

(滝乃川学園石井記念文庫所蔵)

 

 

 


亮一が立教女学校教頭の職にあった明治24年(1891)、濃尾大震災が発生します。亮一は、被災地で年端も行かぬ女児たちが孤児になり、悪徳業者により売春婦にさせられている話を聞き、憤激します。亮一はすぐさま被災地に乗り込んで、孤児となった女児21名を保護します。そして、21名の女児を東京に移し、日本初の公認女医荻野吟子の医院を借りて、女児を収容しました。亮一は聖三一孤女学院と名づけて、私財の一切を投じて、孤児院の事業を開始しました。亮一、弱冠24歳の青年でした。

亮一が保護した女児たちの中に、2名の知的な発達が遅れている女児がいました。亮一は、深く興味を抱きます。亮一は、知的障害者の教育法を学ぶべく、二度にわたり米国に渡航します。そこで、知的障害者教育の権威である故・セガンの未亡人から、セガンの教育理論を学び、また、各地の知的障害児養護施設を視察しました。そして、帰国後、聖三一孤女学院を滝乃川学園と改称し、知的障害児専門の施設として運営していくことにします。学園の名は、所在地であった現在の東京都北区滝野川に因むものです。この学園こそ、我が国で初めて開設された知的障害者のための福祉施設です。

30歳の頃の石井亮一翁

30歳の頃の石井亮一翁

(滝乃川学園石井記念文庫所蔵)

 


亮一は、36歳のとき結婚します。相手は当時、津田梅子とともに進取的な女子教育者として活躍していた渡辺筆子という女性でした。筆子は、亮一より6歳年上で、男爵・渡辺清の長女でした。少女時代、昭憲皇后陛下の命により欧州留学を経験し、帰国後は華族女学校の教師や、静修女学校(後に津田梅子の女子英学塾に託される)の校長をつとめました。封建時代の価値観や風習が未だ強く残る明治時代に、公に男女同権を強く訴えた開明的な女性であったのです。また、華族令嬢としてたびたび社交界にも登場し、「鹿鳴館の華」と謳われた才色兼備の女性でした。フランス語と英語はとくに優れていて、その流暢な会話は、少女時代の筆子と会見した米国の前大統領グラント将軍が絶賛したほどでした。

当初、筆子は、小鹿島果という官吏と結婚し、三女を儲けますが、いずれも虚弱児で、うち二人は幼児のときに死亡。残る一人幸子も知的障害を持っていました。さらに夫の果も病死してしまいます。亮一と筆子は、静修女学校に亮一が講師として招聘されたことで運命の出会いを遂げます。亮一が滝乃川学園の事業を手がけていることを知って、筆子は幸子を亮一のもとに預けることにします。

 少女時代の筆子夫人

少女時代の筆子夫人

(滝乃川学園石井記念文庫所蔵)

幸子を亮一のもとに預けることになり、二人の関係はより近くなっていきます。筆子自身も以前から福祉事業を手がけいたこともあり、また、同じクリスチャンであることから、筆子は亮一の人間性に深く敬愛の念を抱くことになります。そして周囲の反対を押し切って、二人は結婚しました。筆子は、亮一との結婚以前から、滝乃川学園の主要な支援者でしたが、結婚を契機に、より中心的に学園の事業に関わっていくことになるのです。

 


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